長野県駒ヶ根市赤穂4013

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おひさま助産院開業への道のり

 ☆助産師になろうと思ったきっかけ~大人に恵まれた子ども時代~☆

 

子どものころから、私の両親は常に「大人になったら手に職をつけなさい」と口癖のように言っていました。 
私が小学生の頃、親が冗談半分で何気なく言った「お産婆さんが向いているんじゃないか?」という言葉が心のどこかに引っかかっていました。親もなぜ私に「産婆」を勧めたのかは全くの不明です。
高校生の頃、叔父が「高校生のうちに根を張るように。将来なりたい職業を決め、それに向かって準備を始めるように。これからの時代、看護婦がいいんじゃないか?」とアドバイスしてくれました。
しかし、当時の私は看護婦だけにはなりたくないと思っていました。なぜなら中学1年生の時、大好きないとこが当時19歳という若さで悲惨な交通事故によってこの世を去り、人が亡くなる場面にかかわるのが嫌だったのです。
亡くなる命よりは生まれてくる命にかかわるほうが良いと考えた私は、小学生の頃から何となく気になっていた「産婆」という職業について調べ、現在は「助産婦」という職業だということがわかりました。
残念な事に、助産婦になるには看護婦の免許が必要という事がわかり、看護学校を目指すはめになりました。
今から思えば、先見の目を持った大人に囲まれて適切なアドバイスを受けて育ったおかげで、無茶な夢に向かって人生を浪費することなく、冷静に自分の将来の職業を決めることができました。
しかし正直、私もなぜ助産婦が自分に合っているのかは全くわかっていませんでした。おそらく、インスピレーションだったのかもしれません。 

 

 

 ☆伊那中央病院を選んだ理由☆

 

看護学校に入学し、実習病院として伊那中央病院(当時の伊那中央総合病院)にお世話になっていました。当時の建物はボロボロで汚く、病室は狭く、とても魅力ある病院とは言えませんでしたが、職員がとてものびのび、イキイキ仕事をしていました。とても温かい雰囲気を持ち、人情味のある病院だったので、就職は伊那中央病院に決めました。
1年間看護婦として産婦人科病棟に勤め、翌年短大の助産学専攻科へ進学し、卒業後も再び伊那中央病院へ再就職しました。

  

☆いつから開業助産師を目指したのか☆

 

そもそも私が「助産婦」という職業をリサーチした時から、地域の人々から愛される「お産婆さん」でありたいと考えていたため、もちろん助産婦になるなら開業したいと思っていました。しかし、短大を卒業していきなり開業は不安です。助産学生になる前、臨床で看護婦として産婦人科病棟に勤務した経験から、やはり技術を身につけるには大きな病院で学びたいという思いがあったため、伊那中央病院へ戻りました。
しかし学生時代からそうでしたが、私の同級生でも開業を目指している子は一人もおらず、勤務助産婦になるのが当たり前という時代でした。
そのため病院に就職しても、将来の夢は開業したいということは誰にも言わず、ずっとだまっていました。病院に勤務したのに開業を目指しているなんて言ったら、お世話になっている病院を裏切るように感じていたのです。

 

☆夢を失いかけていた頃☆
 
病院に長く勤務しているとだんだん病院でのお産に慣れてしまい、それが当たり前になってきます。開業するにはまだまだ技術も知識も伴わず、私はこのまま一生勤務助産師を続けるほうが賢明かもしれないという思いが頭をよぎるようになりました。
そんな頃、第1子を出産しました。思った以上に難産で、丸3日かかって産みました。当時私は子宮筋腫の核出術を受けた後だったので、本来なら伊那中央病院の診療方針では経膣分娩は不可能で、帝王切開による出産を勧められていましたが、どうしても普通に産みたくて経膣分娩にトライしました。正直子宮破裂への不安はあり、口では「自分で産みたい」と言っていましたが、心の奥底には「いざ危険になったら安全に産ませてもらえる」という思いが潜在していました。

 

☆「自分で産む」お産☆

 

 1人目の出産は難産でしたが、しかし、最後には多くの人の優しさに支えられながら、とても素晴らしい体験ができ、「自分で産むって、こういうことだったんだ」と分かりました。難産だったことは、自分自身の体を見つめなおす良いきっかけとなりました。日頃から自分の健康管理をきちんとしていれば、自然と自分の体を信頼することができ、不安はなくなるということがわかり、2人目の出産は健康管理をきちんとして、より自然に自分らしく産みたいと強く思うようになりました。

 

☆子育てサークルとの出会い☆

  

2人目の育児休暇中、乳児健診の時に「おでかけママップ」という子育てサークルの勧誘がありました。「おでかけママップ」とは、駒ヶ根市で孤独に子育てをしているお母さんが一人でも減ってイキイキと育児ができ、新たな人との出会いを見つけるきっかけづくりになることを願って、駒ヶ根市に在住する子育て真っ盛りのお母さん達が自らの足で歩いて市内を取材し、公共機関から医療機関、あそび場、お店情報などを1冊の冊子にまとめているサークルでした。小さな子どもと一緒に行動しなければならないお母さん達にとって重宝する情報満載のマップです。その編集委員を募集していました。
何か活動をしていないと落ち着かない私は、さっそく仲間入りしてみました。小さな赤ちゃんを抱えていたら行きたいところへも行けず、じっと家にこもっていなければならないと思って悲観していたときの出会いでした。
その時出会ったお母さん達のパサフルさに正直圧倒されました。しかし、たった一人の主婦ではできないことでも多くの力が集まるとこんなにも人の役に立つ活動ができることを知り、とても勉強になりました。
主婦でもやる気さえあれば人の役に立てることを知り、助産師の私は職業を活かして何が出来るかを考えた時、「お産をする人が主役で、私はあくまでも脇役。その人がその人らしく、そしてお母さんの産む力と赤ちゃんの生まれる力を最大限に引き出してお産に導くのが私の仕事。」と気づいたのです。

 

 ☆ジレンマ☆

  

育児休暇明けは、勤務助産師だろうと開業助産師だろうと助産師には代わりはないので、産婦さんの力になれるよう力いっぱい頑張ろうと心に誓い、仕事に打ち込みました。
しかし、我が子にはかなり寂しい思いをさせたと思います。1か月の内、日勤は3分の1、夜勤が3分の1、休日は一応週休2日制でしたが夜勤明けだったり夜勤入りだったり、会議のために病院へ行ったりで、まともな休日は1カ月にたったの2~3日しかありませんでした。子どもがまだ起きないうちに出勤し、子どもが寝た後に帰宅する・・・夕食は週に1回共に過ごせる・・・そんな日々が続きました。
長男が5歳のころ、情緒が不安定なことが気にかかるようになりました。このままでは取り返しのつかないことになってしまうと思い、悩んだ末、二度と戻ってこない育児期間を大切に過ごす事を選びました。
そこで平成19年3月末で12年間務めた正規職員を辞め、4月から夜勤専門のパートになり月10回程度勤務することにしました。

 

☆地域に出ようと決めた訳☆

 

 育児休暇を終えて仕事に復帰してからは、サークル活動はほぼ休止状態でしたが勤務日数が少なくなったおかげもあり時々おでかけママップの会議に顔を出せるようになりました。
 平成19年7月末おでかけママップの会議中に、平成20年4月から昭和伊南総合病院の産婦人科医が信大に引き揚げされるのに伴い、産科が休止されることが話題に上りました。その時、「小林さん、助産師だからなんとか私達を助けて!」とお母さん達に言われました。
 その言葉の重みを受けて、今まで温めていた開業への想いが一気に湧き上がってきました。
 本当にお母さんの産む力と赤ちゃんの生まれる力を最大限に引き出そうと思ったら、妊娠中からのきめ細かい健康管理が必要です。しかし病院で出来る仕事には限りがあり、出産のために入院してから退院までしか関わることができず、充分な健康教育ができないのが現状です。
 そこで、私は今だからこそ開業をして、妊婦さんが「自分で産む」意識を高めて健康管理ができ、異常の予防をしながら安産を目指せるよう、妊婦さんに寄り添った仕事をしていこうと決めました。産婦人科が集約化されて妊産婦さんが殺到する病院ではきめ細かな指導が難しくなってきます。そこで、開業した助産師が妊婦さんや産後間もないお母さん達の不安軽減に努め、健康的に育児ができるよう援助することで、病院への負担軽減にもつながると考えたのです。

 

 ☆安心して安全な出産ができる環境を考える会☆

  

平成19年9月5日、子育てサークル連絡会が主催して勉強会を開催しました。当時の昭和伊南総合病院の病院長を講師に招き、率直に「昭和伊南総合病院から産科がなくなるって、本当ですか?」というテーマで講演をしていただきました。
全国的な産科医不足で行政も病院もあらゆる手を尽くしてもお医者さんがいないという中、署名活動をしたり誰かやどこかを責めても解決しない問題なのだということが分かりました。
そこで、私達にできることを考え、安心して安全な出産ができる環境を整えられるよう前向きに活動していくことを目指して有志が集まり、子育て中のお母さんだけでなく、お父さん、おばあちゃん、専門家などで市民グループを立ち上げました。それが、「安心して安全な出産ができる環境を考える会(in駒ヶ根)」(当時の名称)です。
人を責めることは簡単です。しかし、責めても何も解決しません。むしろこじれてしまうだけです。行政や病院が一生懸命医師集めを頑張っている事を認めながら、妊産婦さんの不安を少しでも軽減して安心して出産に臨めるよう最新かつ正確な情報を提供し、健康管理は自分で行うよう啓蒙活動を展開してきました。

 

☆飯島町保健センター☆

 

 地域で活動をしていくことを決めた時、運良く飯島町保健センターで助産師を募集している事を知りました。今まで病院でしか働いた事のない私にとって、行政で働くことは地域を知る上でとても勉強になると考え、さっそくお世話になることにしました。
 今まで病院から退院していく幸せそうな親子の背を見送ってきましたが、新生児訪問に伺ってほとんどのお母さん達が育児に悩み、困っていることを目の当たりにしました。
 行政と、地域で働く助産師と、病院が一体となれば、お母さん達の悩みはかなり軽減されるだろうと感じました。そのためにも開業して、きめ細かいケアを行う場を作ることは、これからの時代とても重要だろうと強く感じ、開業への想いを一層深め準備を進めてきました。
 また、保健センターでは乳幼児健診や母親学級、子育て講演会など数多くの業務に関わる事ができ、人間の体を総合的に考えた健康管理について学ぶ事ができました。

 

☆思春期の子ども達へ☆

 

妊婦さんが健康になって、健康的に出産ができることで育児がスムーズにスタートでき、愛情を注いで子どもも健康に育てば、やがてその子も健康な子どもを産む・・・という良い循環が起こって皆が健康になれます。妊婦さんへの健康教育が結果を出すには20年以上かかりますが、これから大人になっていく子ども達にも同時に健康教育をすることで、結果は10年後には現れてきます。その為、私は思春期の子ども達への健康教育にも力を入れたいと思ってきました。
私は平成11年に思春期保健相談士という資格を得ました。実際性教育に関わらせていただいているのは平成16年からです。
飯島町に勤務するまでは、性教育と言っても「命の尊さや神秘」や、「生まれてきて良かった」と感じられる講演に重点を置いてきましたが、保健センターで学んだおかげで「子どもの頃からの健康的な体づくり」についても話をすることができるようになりました。
病院から一歩外に出たことで、視野が広がりたくさん学ぶことができ、全て私の糧となっています。

 

 ☆おひさま助産院の名前の由来☆

 

毎年伊那市立伊那西小学校より性教育の講演依頼をいただいていました。平成19年度の6年生に助産院の名前を募集したところ、たくさんの候補を考えてくれました。
「ひまわり助産院」「日の出助産院」「夢と希望助産院」「花と平和助産院」「安心・安全院」「誕生院」といった名前が並ぶ中、「助産院太陽」という名前が目に止まりました。「太陽」が、たくさん並んでいるステキな名前の意味を統括しているように感じたのです。
太陽は、いつでも私達を優しく暖めてくれます。太陽の光があるからこそ新しい命が芽吹いて花が咲き誇り、人に笑顔をもたらします。お母さんが笑顔だと家族みんなが笑顔になり、幸せになります。全ての命の源である「太陽」という言葉にちなんだ名前を考え、「おひさま助産院」と名づけました。
ちなみに、友人が「小林安産堂ってどうよ?」と提案してくれました。これも捨てがたい・・・と悩んだ末に(悩むか?)「おひさま助産院」を採用しました。

 

 
☆心を込めた助産院建設☆

  

温かくて心が通う助産院をつくりたいと、設計には力を入れました。外観や内装は優しい落ち着いた色を使い、廊下は広く、木のぬくもりを感じられるよう和室以外のお部屋は全て無垢の床板を使いました。
幸い私の夫が義父と共に大工なので、わがままをたくさん聞いてもらい、素敵な建物が完成しました。

 

☆人とのつながりを大切に☆

  

今までの人生を振り返ってみると、私は本当に人に恵まれて生きてこれたと思います。子どもの頃は「私は一人の力でも生きられるように手に職をつけるんだ」と思っていましたが、人は一人では生きていくことはできません。人に支えられて生きていられるんだということを、子どもを産んでから感じるようになりました。
そもそも私が開業できたことは、家族の理解と協力があったからこそです。開業しても仕事は安定せず、病院に勤務していた頃の収入と比べたら天地ほどの差があります。そんなリスクを抱えても開業を一番に勧めてくれたのは、義母でした。
実家の親や兄弟、親戚は心配して開業に反対していましたが、家族は誰も反対をしませんでした。経済的にはかなり厳しい状況での助産院建設でしたが、多くの人が心の支えになってくださり、開業までこぎつけることができました。
家族を始め私を取り巻く多くの人に、感謝の気持ちでいっぱいです。開業して妊産婦さん、お母さん・赤ちゃんに寄り添って、心を込めて仕事をすることが精一杯の恩返しだと思っています。

今、私はやっとスタートラインに立ったばかりです。これまで私を支えてくださった方々とのつながりを大切にし、感謝の気持ちを忘れずに、人に優しく、おひさまのようにあったかい助産師になりたい、そうあり続けたいと思っています。

 

・・・・というわけで、私が開業するまでの道のりを長々と書き連ねました。

ここまで読んでくださった方、本当にあなたはいい人ですね。ありがとうございます。